『モダニズムと帝国』―ハワード・J・ブース / ナイジェル・リグビー編  (マンチェスター大学出版局)

第2章

本国と外地:帝国主義・モダニズム言説における退化

ロッド・エドモンド(Rod Edmond)

社本 雅信(訳)

 この章の主題は、19世紀末と20世紀はじめの帝国主義的作品とモダニズム作品に退化思想がどんな共通する影響を及ぼしたか、また双方向的に補強し合う影響を及ぼしているか、を論じる点にある。帝国主義思想における退化思想の重要性は、十分に立証されている。 対するに、モダニズムと退化思想との関係については、これほどには論じられておらず、この関係が帝国主義によって屈折させられていることに関しては、ほとんど論じられていない。それを検討しようとの試みもわずかにせよ行われたが、それらは、モダニズムがこのしばしば 面白くない考え方に連座しているとの「罪」から潔白であるとの評決を下すか、その「罪」を犯しているとの評決を下すか、どちらかに決めたいとする強い欲求のために、不備があった。わたしはこの関係について、主としてジョウゼフ・コンラッドとT. S. エリオットを論じることを通して、いっそう陰影に富む説明をするようにこころがけたい。

 ジョイスの『ユリシーズ』の「イタカ(Ithaca)」(*ギリシャ西部海岸沖のイオニア諸島中の島。ユリシーズの故郷)章で、問答式で語りをすすめる語り手は、「避けがたいが予測しがたい、世界全滅とそれに続く人類滅亡」と節をつけて言う。人類滅亡は避けがたいとの考えは、19世紀後半に特別な切迫した意味を獲得し、世界が歴史的に下降傾向にあるとの古くからある考えに新たな命を吹き込み、同時代の科学者たちによる退化論と結合した。そこで、この三つの言葉――衰退、退化、絶滅――の絡み合った関係と、この三つが、片や帝国主義言説、片やモダニズムとのあいだで占める関係について要点をまとめておくこととする。

 帝国は興隆し崩壊するとの考えは、陳腐な考えに化していた。マコーレイ(*T. B. Macaulay. 1800―1859: 英国の詩人、歴史家、ホイッグ党員)が、1840年、「ニュージーランドからの旅行客が......ロンドン・ブリッジの壊れたアーチに立ち、セント・ポール寺院の廃墟をスケッチする」未来時を想像したとき、ギボンを振り返っていたのだった(のち、ドレ(*ギュスターヴ・ドレGustave Dore 1832-83:フランスの画家、挿絵画家、彫版工)により絵画化された)。世界の向こうから来た「時の廃墟について瞑想する」この人物は、心乱す存在というよりむしろ心地よくさせてくれる存在だった。マコーレイの思い描いたおそらくヨーロッパ的なニュージーランド人(英国は1840年ニュージーランドを併合した)は、先祖がやめてしまったところから引き継ぐことができる。

(中略)

 『密偵(スパイ)』における退化と起こりうる絶滅に対する関心はさまざまな形をとり、外側からも内側からも生まれ出るものとして表現されている。無政府主義者たちはだれも英国人ではなく、本初子午線を爆破する計画は外国(ロシア)の強国の仕事であるが、しかしロンドンは病気と破壊が栄える舞台装置を供給する。小説はウィルス感染の脅威で始まり終わる。ヴァーロックは「ヨーロッパ本土から(インフルエンザのように)ロンドンに」(p.6)着き、最後の文では「プロフェッサー」は「人であふれかえる街路をペストのように、怪しまれず死を撒き散らして」(p.311)通って行く。ロンドンがこういう感染にどの程度免疫があるかは不安を覚えるほど未解答のまま放置されている。 作品全体にわたる焦点は、退化あるいは崩壊のさまざまな状態で見える身体にあてられている。ほとんどすべての登場人物が奇異な身体をしていることは明瞭である。小説はとりわけ肥満に関心をよせる――あたかも腹がふくれた無政府主義者たちは、ちょうど彼らの所持する爆弾のように、今にも爆発しそうだ。ばかでかくない登場人物は、異常にやせているか小柄である。「プロフェッサー」のとても小さい体格は、膨れ上がった無政府主義者たちと対照的で、彼が懸命に作り出そうとしている完全な起爆剤を思い起こさせる。さらに、「プロフェッサー」の悲しむべき「身体のお粗末さ」(pp.62, 94)と暗にほのめかされた性的不能(ズボンのポケットに入っているゴムボールが強くこねられる)も「警視監の精力的で粘っこい体力」(p.94)と対比されている。これらの叙述法は、正常に皮肉が効いているが、同時に、人口に関する不安、退化、ロンドンを取り上げた世紀末の作品に見られる堕落の脅威をよく描き出している。

 退化の身体的症状に向けられたこの注意と、この症状が精神的社会的健康に対して持つ厄介な暗示は、オシポンの信奉するロンブロオソ(*チェザーレ・ロンブロオソCesare Lombroso(1836〜1909)。『犯罪人論』という著書の中で「犯罪者は一種の先祖がえりであり“原始食人種の本能や猛獣の残酷さを備えた人間”である」という「生来犯罪者説」を唱えた)的言説によって支えられてもいるし弱められてもいる。アイロニーは、小説が無政府主義者グループのメンバーを、とりわけオシポン自身を位置づけ類型化するのにこれとまったくよく似た言説を用いている点にある――「縮れた黄色い髪の毛の茂みが、彼の赤いそばかすだらけの顔の頂を覆っていて、ペチャンコの鼻と出っ歯が黒人タイプの粗悪な型にはめて造られている」(p.44)。こんなふうに、物語はこうした叙述法とそれの文化的イデオロギー的暗示を用いつつ同時にそれらを皮肉っている。

 小説の終わり近くで、オシポンのぼさぼさの髪の毛は「太陽のような輝きを持つ点でアポロンのようだ」(p.309)と叙述されている。これは、日が決して没することがないといわれる大英帝国の中心で、太陽が何度もはなやかに顔を出しては消えていったなかの最後である。小説の冒頭部分におけるロンドンの背景描写で、血走ったコールリッジ的太陽がハイド・パーク・コーナーの上方低くにかかっている。「時間厳守で温和で」はあるが、不安なほどそれは影を落とさない(p.11)。ウェストエンドを訪れる裕福な常連たちを引き立てはするが、ヴァーロック夫妻が店を構える薄暗い通りにはそれはけっして姿を出さない(p.258)し、弟スティーヴィーの死で気も狂わんばかりのウィニーにとっては、すっかり消え失せている――「太陽が、信じていた摂理の背信によって不意に夏空の中に消されてしまったなら、地球半分の人口が驚愕と絶望のあまり言葉を失うであろうように、ウィニーは押し黙っていた」(p.244)。オシポンの頭髪のように猥雑な、この変則的な影を持たない太陽はロンドンにまったく熱をもたらさず、そのためロンドンはヴァーロック夫妻が住み無政府主義者たちの会合する風通しの悪い部屋から、あるいは市内のどこにでも姿をあらわす警視監のいらだたしいほど腐敗した体力から、暖気そのものを発生させることを余儀なくされる。だがこの熱の供給源のどちらも大した光を調達することはない。

 熱、光、生命の物質的供給源にたいするこの関心は、「プロフェッサー」の脳裏から離れずスティーヴィーを木っ端微塵に吹き飛ばすことになるおそろしい混沌と絶滅のビッグ・バンと密接に結びついている。初め、この関心はパロディー的な形をとり、スティーヴィーがほかの男子事務員たちから聞いた「不公平と抑圧の話」に繊細な同情心をゆすぶられて逆上し、事務所の階段に花火を破裂させたという記述がおこなわれる(p.9)。スティーヴィーは、無政府主義者の「かも」として、同時に彼らにとっての罪のない秘密の共有者として、彼らに影を落とす。「明かりをつけすぎた」シレノス・レストランが、「粉々に壊れたレンガと手足を切断された死体のおぞましいゴミでふさがった......恐ろしいブラックホールに変貌する」(p.67)光景を悪夢で見るオシポンの描写は、グリニッジ天文台を爆破しに行く途中でスティーヴィーが死ぬ場面の伏線となっている。今度は、この場面が鮮やかに不安になるくらいこまごまと描かれる。スティーヴィーの死体は「口にするのも恐ろしい断片の山」(ただ見落とした名札によってのみ身元を確認できた)であり、その死体が人食いの対象になったことを際立たせるために、警視監を「金のかからぬ日曜の晩餐をつくろうとして、肉屋の“クズ肉”の上に......身をかがめている貧乏な客」(p.88)になぞらえる気味の悪い、しかし、突き放した例えが行われる。

 同じような二重効果は、警官がスティーヴィーのばらばらになった肉片の一覧表を作る身の毛のよだつ場面によって達成されている――「『そこの足を見たまえ。おれは脚から最初に拾い上げたのさ、一本ずつな。彼はえらくばらばらになっちまったので、どこからはじめていいものやら分からなかったよ』」(p.89)。警視監はまもなく「プロフェッサー」から犯人逮捕が大変困難であることを気づかせられる。「プロフェッサー」は、万が一自分が逮捕される動きが見られたら、爆死するように配線が施されている――「『しかし君は私といっしょに埋められるという不愉快な目にあうかもしれない。もっとも、君の友人たちはできるだけ二人をえり分ける努力をするだろうがね』」(p.93)。肉体分解のこれらのイメージ、トマス・ハーディーが「平らにならした教会墓地」という詩で、「人のジャム」と名づけるものに肉体は変わるというイメージは、社会と自然の分解に対するより大きな恐怖――それは『密偵(スパイ)』全体に浸透しているものだが――を表している。グリニッジ公園での爆破場面をウィニーは空想するが、その空想のなかに、スティーヴィーの死体の断片は、降り続ける――「ずたずたに切断された手足が雨のように降ったあと、スティーヴィーのちぎれた首がひとつだけ宙に浮いてうろうろしていたが、やがて打ち上げ花火の最後の星のようにゆっくりと消えていった」(p.260)。

 ばらばらの身体は、砕け散ったものであろうと切断されたものであろうと、健全さと首尾一貫性を失ったことへの明らかに現代的な意識を表す方法としてしばしば用いられてきた。この喪失感は生物学的な衰退理論がますます社会理論に適用されだした二十世紀の変わり目あたりで目立ちだし、身体自体が社会について考えるひとつの方法にとどまるのではなくむしろ社会に関する知識の供給源となった。同様に、生物学的社会理論はトムソン(*1906年にノーベル物理学賞を受賞)、マックスウェル、この二人を世に広めた人々の物理学と交点をもった。彼らは十九世紀末に散逸と無秩序の概念と徐々に死に向かう太陽に起因する「熱力学的死(*宇宙を閉鎖系と仮定した場合の終極状態。熱力学の第二法則に由来する)」として知られた概念を広く一般に広めたのだった。この生物学的理論と物理学的理論はともに、この世の終わりを予言する要素とつながる可能性をもっている――終末論的要素はモダニズムに出現し、モダニズムを定義づける特色のひとつとしばしばみなされるものであるが。

 しかし、コンラッドはイェイツ、ローレンス、あるいはエリオット的意味で(ヨハネ黙示録に描かれたように)この世の終わりを予告してはいない――この三人の中ではエリオットにいっそう近いけれども。彼のロンドンはこの世の終わりを予告するような終わりかたをしない。無政府主義者たちは腹の膨れたおしゃべりであり、「プロフェッサー」は「大衆の法律尊重主義を打ち破る」(p.81)という自分に課せられた使命のむなしさを間欠的に気づく。ロンドンの通りをひとり歩いていると、爆破計画の生きた原子――ロンドン市民――が「さながらバッタのようにわんさと、アリのようによく働き、群がってきた......やみくもに、整然と、思いに耽って、情、論理、おそらく恐怖をも知覚することなく」(p.82)。これは革命を構成するものではない。

 それでも、たとえ世の終わりの夢がむなしくとも、一様な、多分不可逆なエントロピーが働いている。この術語その自体は1860年代の後半にはじめてクラウジウス(*Rudolf Clausius;1822〜88。ドイツの物理学者・数学者。熱力学の基礎を築いた一人)によってはじめて提起され、散逸と無秩序に関する他の科学理論と絡み合った。クラウジウスは、あるシステムのエントロピーはそのシステム内部の熱の輸送によって常に増大する、したがって、「宇宙のエントロピーは最大値に向かう」と論じた。警部がロンドンの通りをさまよい歩く行為をロンドンのエントロピー状態へのいくつかの寄与のひとつと読み取ってみたくなる。ロンドンにいる政府機関のさまざまな役人は、秘密に行為する者であろうと公けに行為する者であろうと、そこにいて守ろうとするシステムに損害を与えている。ロンドンの健康な地域を病める地域から保護するために設けた境界はたえず越えられつづけている。偉大な婦人後援者の邸宅は警視総監補、ウラジミール、マイケリス(警官、外国の有力者、テロリスト)をもてなす会場である。病原体とシステムは不可分なのだ。

 これまでの説明は『密偵(スパイ)』に関する一面を述べた説明にすぎない。というのも、小説のアイロニーが小説全体を統合する未来図を大いに妨害しているからだ。町をやみくもに群がって動く大衆は、「プロフェッサー」の理論に慣性抵抗をし、エズラ・パウンドの詩「庭」の「貧困者の汚ならしくも元気いっぱいの永遠の生を託されし子供の群れ(*パウンドは裕福なエリートを蔑視し、たくましい貧困者の子供に地球の希望を託した)」にかなり似て、ある種の生き残りと継承を約束する。実際、コンラッドはこうした概念を法則というよりむしろ暗喩として用いているのである。歴史は人間によってというよりむしろ物理学的法則によって作られるということを、『密偵(スパイ)』が主張してわけでは断じてない。たとえば、ジャック・ベルトゥ(Jacques Berthoud)は、ポスト啓蒙主義運動の合理主義教義への反感が小説中では語り手の科学非難を通して、かつ、オシポンとヴァーロックの人間の苦悩に対する「科学万能主義的」無理解を通して表現されているということを証明した。それでもやはり、科学の基礎的主張に対する反感を抱きつつ、コンラッドは彼の時代の兆候を分析するために、エントロピーと太陽の衰退に関する物理理論を用いないではいられなかった。マイケル・ホイットワース(*ウェールズ大学英文学教授)は主張する――文学は、一層想像力を刺激する科学思想を採用しながら、「科学」をしばしば「想像力」に敵対する唯物論的価値観を表象するものとして身代わりに使うと。これは『密偵(スパイ)』に当てはまる。この作品のメタ・アイロニーは太陽物理学と人間生物学(*遺伝学、セックスと再生、健康問題を扱う)に由来するメタ・ナラティヴに依存しているからである。そして、他のモダニズムのテキストと同様、『密偵(スパイ)』は同時代の傾向を分かち合い、科学的なものと社会的政治的なものとを融合しているのだ。

 以上はロッド・エドモンドの論文の一部であり、全体ではありません。

 

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