『ノストローモ』における群衆

社本 雅信(記)

 吉田裕さんの発表は『ノストローモ』理解に大いに資する視点を提供してくれた。 以下、要旨を書きとめておく。

 『ノストローモ』には名を与えられた人物と、名を与えられていない人々・集団がいる。前者はいわば表舞台に立つ者たちで、ヨーロッパ人およびアメリカ人である。後者はモンテロを中心とする体制打破の蜂起に参加するので、単なる楽屋裏に収まらない存在感を有する。しかしながら、主要なエピソードの多くに関わり、物語の前面に立つのは、前者である。

 『ノストローモ』のように先見性のある作品ですら、サイードの言うヨーロッパ中心主義的な考え方を免れていない(Cf. “Through Gringo Eyes”)。

 『ノストローモ』において、群衆がどのように描かれているか、あるいは名を与えられた人物であっても(とくに主要登場人物中のノストローモ)、彼らが「群衆化」するときに、どのようにそうした有象無象とある種の連続性をもちうるかということに焦点を絞って、サイードの言うコンラッドの限界を再検討する。

 コンラッドが〈群衆〉という現象に強い関心を抱いていたことは、伝記的事実、『「ナーシサス号」の黒人』のアメリカの読者へ向けた序文、Last Essays 中の「大衆心理」に触れた一編のエッセイから明らかである。

 『ノストローモ』に描かれる群衆は、その多くが、指導的立場に立つ人に従う属性を持ち、〈群衆への嫌悪〉が〈群衆への魅惑や共感〉に先行している典型的な群集心理論にそのまま当てはまる描写が多い。

 群衆への直接的な言及と描写に限ると、『ノストローモ』には、三つのカテゴリーに分類できる群衆がいる。第一のカテゴリーは、〈暴徒 mob〉、〈烏合の衆rabble〉として否定的に描かれる群衆である。第二のカテゴリーは、労働の規律・生活習慣に従って行動する群衆である。第三のカテゴリーは、〈無名の語り手〉による群衆の精神性への考察である。
(まだ書き残したところが多々あります。発表者の研究上のオリジナリティーを尊重して、これ以上の紹介は避けます。興味のある方は、ぜひ〈研究会〉にご出席ください)

 吉田さんは、旺盛な学究的好奇心に駆られて、『ノストローモ』の分析に取り組んでいる新鋭の研究者です。
フロイト、レイモンド・ウィリアムズ、今村仁司、カネッティ、ズジスワフ・ナイダー、エドワード・サイードなどの考え方も紹介しつつ、論文作成中です。 

 

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